高橋亀吉記念賞

優秀作


大沼 伯史 氏(株式会社電通)
「イノベーションを支える先端技術の市場化と需要表現の重要性」

はじめに

 国内総生産に占める研究開発費の比率、基礎研究費の比率は世界でトップクラスであるにもかかわらず、失われた10年を経て日本企業は新製品開発競争において厳しい状況にある。その原因を先端的な研究開発の市場導入が困難である点にフォーカスし、イノベーションを研究開発のみならず、市場の需要を創造するレベルまで包含して考察するとともに、国際競争の激化、地球温暖化などの環境問題、企業の社会的責任も視野に入れた日本企業の取り組むべき課題を明示し、ブレイクスルーとなる提言を以下に展開したい。

1.先端技術市場化の先駆的モデルに学ぶ

日本におけるイノベーションの先駆的な事例から、先端技術を見事に市場に適合させていったモデルを考察してみる。1908年に東京帝大の池田菊苗教授が発明したグルタミン酸ソーダの製造法を、鈴木商店(現味の素)が実用化してから今年で丁度100周年を迎える。欧米の味覚分類で甘味、酸味、塩味、苦味が4大基本味覚であったのに対し、日本特有の旨味の成分分析を行った池田は、昆布の旨味成分としてグルタミン酸ソーダを抽出することに成功した。これは世界的な発明として注目されたが、さらに驚くべきことに翌1909年に池田教授の助言の下、鈴木三郎助氏がいち早くサトウキビ由来の同原料による調味料の事業化に着手し、「味の素」の商標で販売を開始している。

当時の先端技術をブランド化し、わずか1年足らずで市場導入するスピードの速さは、現代の製品化を上回るハイペースである。グルタミン酸ソーダの開発段階ですでに池田の脳裏に「わが国民の栄養不良なるを憂慮し、(中略)佳良にして廉価なる調味料を作り出し滋養に富める粗食を美味ならしむこと」という社会における潜在需要を技術の研究開発に適合させたイメージが醸成されていたことが大きな一因である。[1]

さらに、グルタミン酸ソーダを原料にした製品は、大量生産製法の確立とともに、この100年間で調味料に留まらず、飼料、睡眠薬、鎮痛剤等の薬品、健康食品、スポーツドリンク、甘味料、レトルト食品等に拡大し、今後はアミノ酸合成技術を転用しながら核酸やたんぱく質合成による新たなイノベーションに結実しようとしている。

こうした特定のアミノ酸研究開発が、根本となる市場の需要を適切にイメージしながら進展することによって、調味料という市場ドメインを創造し、さらにその収益を基に多様な製品開発に繋がっていった好循環過程を明らかに見出すことができる。

2.日本型デスバレーの克服

米国における「デスバレー現象」とは、研究から事業化へのプロセス間における投資資金の不足による断絶を示している。その結果、多くの貴重な基礎研究が日の目を見ないままに終わるケースが多い。

1988年、米国連邦議会下院科学委員会副委員長Varnon J.Ehlersは、米国の科学技術政策で、連邦政府が行う基礎研究への支援と、民間のリスクマネーが行う商品化開発への投資の間にギャップが存在していることを指摘した。

1980年代に、米ゼロックス社のパロアルト研究所が、アランケイの考案した「ダイナブック」と呼ばれる現在のノート型パソコンの原型、マルチウインドウ、GUI、マウス、LANを装備した先進型パソコン「Alto」を開発しながら商品化できなかったケースが、米国型デスバレーの典型と見られている。

一方、日本におけるデスバレー現象は、資金不足以外の理由により、優れた技術をイノベーションに結びつけることができない状況を指し示している。日本型デスバレーの要因としては、以下の問題があると言われている。[2]

(1)ビジョンやコンセプトなどを表現する能力の不足

かつてのイノベーションの担い手は、どうやってビジョンを持ちえたのか?イノベーションを成し遂げる経営者には、市場が何を求めているのかを洞察するインサイトを持ちえているという説がある。[3]

池田菊苗氏には、日本古来の「旨味」を化学的に証明することで日本の食のアイデンティティを確立すると共に、20世紀を迎えた日本国民の栄養不足を解消するという大きなビジョンがあった。

しかしながら、20世紀を支えた技術革新による大衆への恩恵のパワーはひと段落した。鉄・電力・石油関連の技術は完熟状態にあり、宇宙産業・バイオ・マルチメディア・新素材・核融合などの新技術が、相乗効果を発揮してイノベーションをひき起こすには巧みな「需要表現」を具現化する能力が求められる。

「需要表現(Demand Articulation)」とは、芝浦工業大学大学院工学マネジメント研究科長・東京大学名誉教授の児玉文夫教授が1991年に提唱した造語で、「潜在需要の技術的表現化」の略語である。

木村尚三郎氏は、現代フランスの哲学者ミシェル・セールの言葉を借りて「進歩の20世紀」は終焉し、不透明な明日を凝視しながら、互いに自分を拓いてコミュニケーションをはかり、相互に取り柄を交換させながら繁栄を実現する「共生の21世紀」の時代に入ったと看破した。[4]その意味で、天才的な発明家、経営者といったイノベーターの属人的才能に期待する時代ではなくなったと言える。

先端技術に係る需要と製品化のコンセプトを見出すビジョンを組織的に生み出す仕組みが重要になってくる。

(2)組織内部における連携不足

なぜ、日本企業は基礎研究や基盤技術開発にも力を入れ、製品イノベーションも活発で、製品開発のスピードや効率も世界トップクラスなのに、企業にシェアや収益をもたらさないのか?、という課題に悩まされている。国内総生産に占める研究開発費の比率、基礎研究費の比率は、80年代以降世界でトップであり、RもDもしっかりやっているのに、収益力の高い製品や事業が生まれないのはなぜなのか。

藤本隆宏東大教授は、この課題を解くにあたり、日本企業における研究(Research)と開発(Development)を橋渡しする先行開発に着目した。[5]先行開発とは、製品開発に先行して、その製品に必要な要素技術を開発することであり、ある特定の新製品の開発日程・コストを念頭に置きながら、それに先行、あるいは同時並行して、新しい要素技術を具現化することを目指す。

RとDの間が組織的に断続しているのが、日本の大企業特有の問題として存在することを指摘する。基礎研究部門で世界初の要素技術を発明しながら、開発部門は、どういう製品コンセプト、ブランド価値、顧客満足をもたらすのかを明瞭にイメージできない。結果として、とりあえず次の新製品にこの技術を乗せておくが、消費者にとって、何故この製品にこの技術なのかを受容できずに、製品が売れない結果を招くことがある。

一番の原因であると考えられるのが、RとDを結びつける「先行開発」がボトルネックに陥っている点である。先行開発には、目的となる開発に先行する開発を「擦り合わせる」ことで、製品ブランドの構築をもっと深いとこらから仕掛ける機能が隠されている。

製品開発部門が、「顧客のベクトル」と「製品のベクトル」を一致させるのに対し、先行開発部門は、「顧客のベクトル」と「製品のベクトル」に、「要素技術のベクトル」を一致させようとする。このプロセスにおいて、新製品が顧客にとっての「物語」をつむぎだす力=ブランド力を支援する技術を評価し、支援する。先行開発では、製品がブランド力を発揮するプロセスに関する深い洞察力=市場翻訳能力が必要になる。

例えば乗用車の製造開発部門では従来のマーケティングに則り、顧客の「低燃費」「高い環境性能」というベクトルに対して、従来の製造ラインでのみ対応しようとする。このプロセスでは、新しいブランド価値に基く顧客満足を明確にイメージすることが難しい。

一方トヨタ自動車「プリウス」の開発を例にすると、先行開発としてのハイブリッドエンジンの開発が新しい車両製造開発と同時並行で進められたことで、両開発の擦り合せの過程で新しいブランド価値と顧客満足を明確にイメージすることができたと考えられる。

研究、先行開発、製品開発のプロセスにおいて、各部門が内向せずに、新しいブランド価値の創造という目的を共有しながら、先行開発される要素技術の需要表現を共同で模索していくことが、日本型デスバレーを克服する要件となる。

(3)リーダーシップの不足

組織内部連携に基くブランド価値のビジョンやコンセプト構築には、やはりこれをまとめていくリーダーシップが必要である。多くの国内製造業企業は、コストと品質による競争に重点が置かれた“How to make”のプロセス・イノベーションから、付加価値の高い差別化による競争に力点が置かれる“What to make”のプロダクト・イノベーションへと重心を移行しつつある。日本版デスバレーを克服するためには、イノベーションのパラダイムシフトとそれへの対応を理解することから始めなければならない。部分的な対応ではなく、トップのリーダーシップ発揮による全社的な意思決定が求められる。[6]

3.新・需要表現=技術の市場化×企業の社会的責任→サステナブルな価値

イノベーションと市場を結ぶ先行開発において今後考慮すべき点は、環境や企業の社会的責任(CSR)、サステナビリティに敏感な新しい消費者の意識である。CO2削減や環境対応の製品に対する需要予測を誤ったR&Dは、企業の収益を悪化させるばかりではなく、社会厚生上の膨大な損失をもたらすことになる。

環境性能の高い自動車の新しい動力機関の開発においては、多くの自動車メーカーは、環境性能は卓越しているが開発スパンの長期に渉る電気自動車や燃料電池自動車を本流と考え、ハイブリッドエンジンを「つなぎの技術」と看做していた。しかし、現実的には21世紀以降、トヨタ自動車が内燃動力とモーターを組み合わせたハイブリッドエンジンを搭載した「プリウス」が市場化を先行させ、市場のニーズを高めており、人気となっている。ポスト内燃機関動力については、燃料電池の開発や原料となる水素製造に関わる施設・コストが市場化のレベルで実用化の見込みが立っていない現状にあることから、2007年以降の原油価格の高騰がハイブリッドエンジン搭載車両の市場ニーズを高めている経済合理性の現われと一見考えられる。

しかし、イノベーションのジレンマの視点から見てみると、短期的な環境対応・CO2削減・低燃費という市場ニーズに加えて、長期的スパンにおける化石燃料の資源減少という市場環境の変化という二つの要件に対して、燃料電池自動車は後者に対応しているが短期的な市場ニーズに応えられずにいるうちに、ハイブリッドエンジン車はサステナビリティに敏感な消費者の増加という需要への対応しつつ、長期的な市場環境の変化の先取りに成功した開発事例である。

当初、「プリウス」の価格設定は極めて戦略的であり、ハイブリッドエンジンの研究開発に投じられた費用を回収することは、不可能とされていた。一方、消費者の立場からも価格設定は同クラスのエンジン車と比べて高めで、価格差を燃費換算すると燃費の優位性は少ないと考えられた。

しかしながら、消費者の環境対応への即時的な希求、エココンシャスな意識の高まりは欧米の自動車メーカーの需要表現を創造以上に上回り、市場化に時間のかかる燃料電池車等よりもハブリッドカーの需要表現にマッチしたと言える。

ポスト内燃機関の開発と市場化における断絶=デスバレーを、ハイブリッドエンジンカーという需要表現が、他の電気自動車や燃料電池車よりもはるかに短期間に乗り越えたことになる。

4.組織と国境を越えたソリューション

こうした日本における先端技術と市場を短期的に結びつけた事例は、必ずしも多いとは言えない。三菱総合研究所の調査によると、製品化されていない技術が「多く存在する(4%)」「かなり存在する(23%)」「若干存在する(50%)」で、約77%の企業が技術の製品化ができない状況を認めている。[7]

先に挙げた三つの原因以外にも、大きな課題があると考えられる。すなわち市場とは組織の外部に存在するものであり、組織内部においてのみ「需要表現」を希求するのでは、いわゆる「合理性の限界(Bounded Rationality)」に陥る可能性が高い。

具体的には組織内部における技術経営の人材不足、研究領域の限定性からくる視野の狭さ、研究開発部門とマーケティング部門の意識的な乖離と情報の非対称性等が挙げられる。

こうした組織と市場の乖離を埋め合わすべく多くの技術とマーケティングのコンサルティングビジネスが、次々と新しい手法を提案し続けてきたが、近年の市場環境の変化はめまぐるしく、次々に陳腐化しているのが現状である。

ここで大きく注目を浴びているのが、インターネットを活用した集合知の活用である。百科事典の「ウィキメディア」、OSの「リナックス」、映像コンテンツのアーカイブ「ユーチューブ」等は、市場における誰でも活用できるコモンズとして、「空気のように」一般的に実用化されている。

研究開発、先行開発における市場の需要表現実現には、組織や国境を越えた英知を活用することで、先に述べた技術・組織と市場における情報非対称性、限定合理性をできるだけ回避することが可能になるのではないだろうか。世界の個々人の隠れた才能、知識、評価、情報を活用する「クラウドソーシング」を技術開発の需要表現発見に活用できれば、日本型デスバレーを克服する大きな力になると考えられる。

これは、組織内に留められていた研究開発に、一般の市民の意識やニーズを取り込むことにつながる。市場の潜在的需要に留まらず、市民のサステナビリティへの意識、新技術によるソリューションを希求する領域の発見を目指すものである。

5.まとめ

日本企業の技術開発における強みとして製品開発に先行する要素技術の開発において、開発者間における「擦り合せ」の過程で当該技術の需要表現を明確化し、ブランド価値を創造する基点を培うことを述べてきた。100年前の池田菊苗博士と鈴木三郎助氏との研究開発と製品開発を橋渡しした「日本人の滋養を高める」という高邁な需要表現は、グルタミン酸ソーダという一要素技術を多様な製品開発に開花させていく始原となった。これは、現代の「プリウス」の開発に見られるハイブリッドエンジン開発という要素技術と、それを搭載するプラットフォームを同時並行で製造していったプロセスが未来の消費者の需要を先取りした需要表現であることに通底している。

日本企業における陽の目を見ない数多の研究開発には、第2の「味の素」「プリウス」が眠っているに違いないはずである。そこに需要表現という息吹を吹き込むことで、まさに「死の谷」から蘇生し飛翔していく「不死鳥」ビジネスが多々誕生する可能性を秘めている。

日本企業に求められるイノベーションとは、日本的組織の中に眠る技術を組織外のニーズや意識と照らし合わせることで、改めて組織内コミュニケーションを活性化させ、市場化によって技術の存在証明を行うことに尽きるのではないのだろうか。

高度な守秘性の求められる研究開発・製品開発に、クラウドソーシングによる需要表現を結びつけるには、新たな社会システムの開発が前提となる。しかし、同じく高度な守秘を義務付けられている裁判員制度が実施されようとする今日、その可能性を頭から否定することは値しないだろう。

脚注

参考文献

  • 児玉文雄編『技術潮流の変化を読む』日経BP社2008年
  • 瀬戸篤「アントレプレナーシップが経済を変える・動かす―新事業創出に向けて」 日本経済新聞社広告局/編 伊藤元重他著『経済マイスターによる知力講座』日経広告研究所2008年
  • 二瓶正、石川健、船曳淳「デスバレー現象と産業再生―高い技術力を産業競争力へ転換する仕組み(政策創発研究シリーズ)」『NEXT・ING Vol.4 No3』三菱総合研究所2003年
  • バリー・リバート、ジョン・スペクター他『クラウドソーシング―世界の隠れた才能をあなたのビジネスに生かす方法』英治出版2008年
  • 藤本隆宏『日本のもの造り哲学』日本経済新聞社2004年