白川方明・日本銀行総裁への公開書簡
日本銀行総裁
白川 方明  閣下
米コネティカット州ニューヘイブン・イェール大学経済学部
浜田 宏一
拝啓
 金融界の頂上に立つ白川総裁にこのような率直なお手紙を書くのは、礼に反することではないかと恐れます。
 しかし、総裁の政策決定の与える日本経済への影響の大きさ、しかも、それによって国民がこうむる失業等の苦しみなどを考えると、いま申し上げておくことが経済学者としての責務と考えましたので、あえて筆をとった次第です。

 貴兄に初めてお会いしたのは、1970年初、貴兄が東京大学経済学部の学生の頃でした。私は貴兄の聡明ぶり、分析力の鋭さに感銘を受けました。館龍一郎先生と私の共著の教科書には、校正、コメント等ご助力いただき、ありがとうございました。
 大学院に進んで学者になってはと勧めた学生は、私の東京大学勤務の間ほんの一握りに限られましたが、貴兄はその1人でした。日本銀行に入行されてから貴兄はシカゴ大学に留学されましたが、1985年厳冬に私がシカゴ大学に1学期(クォーター)だけ客員教授として訪れたとき、大学院生としての貴兄の秀才振りには伝説さえあるようでした。シカゴ大学でジェーコブ・フレンケル教授(後にイスラエル銀行総裁)が、「シラカワはよくできた。学問を続けてほしかった」と残念そうに言っていたのが印象的でした。貴兄は職業選択にも先見の明があり、中央銀行員としての成果も上げられて、総裁に就任されたこと、心からお慶び申し上げます。

 次にお会いしたのは、2001年、私が内閣府経済社会総合研究所所長の立場で、経済財政諮問会議に陪席していたときのことです。速水優・日本銀行総裁(当時)の補佐役として出席していたのが当時、日本銀行審議役であった貴兄でした。陪席者としては例外的に与えられた諮問会議での発言の機会に、私は当時の速水総裁の政策にチャレンジを試みました。
 私は、いくら何でも貴兄が速水総裁の無謀(いまでもそう思います)と言うべきゼロ金利解除等の政策に、本音で賛成しているとは思いませんでした。そこで、2人で議論すれば相互理解が深まると思い、個人的にお会いしました。しかし、そのときすでに貴兄は、(世界では孤高の)「日銀流理論」を信奉するようになっていたらしく、議論はかみ合わないどころか、真っ向から対立しました。私の当時の秘書は、所長室を出て行く貴兄の顔面が蒼白であったことに驚いたと言っています。
 私はいままで、貴兄の個人的な聡明さ、誠実さ、謙虚さなどをいっさい疑ったことがありません。しかし、いま重要なのは、いかに論理的に明晰な貴兄が誠実に信じて実行されている政策でも、それが国民生活のためになっていないのではないかということです。
 さて、そのように意見が分かれた後でも、貴兄は、私に日本の金融の現状を説明するため、日本銀行の優れたスタッフとの昼食研究会を(後で問題がないよう割り勘で)開いてくださり、そこで私は日本銀行の政策の背景についていろいろ学びました。その紳士的態度には、いまでも感謝しております。

 最後に貴兄とお会いしたのは2009年6月、その前月に亡くなられた速水総裁の「お別れの会」が経団連会館で催されたときです。ちょうど帰国中だったので、速水総裁のご霊前にお参りすることができ、「お別れの会」実行委員代表である貴兄ともごく短時間お会いしました。貴兄は「よく来てくださった」とおっしゃったと思いますが、場所がら、政策問題はいっさい話題にのぼりませんでした。
 もちろん速水総裁の政策観、政策運営については、私も諮問会議の場や、メディア等で強く批判を述べさせていただきました。しかし内閣府勤務の2年の間、私にとって清涼剤と感じられたのは、個人としてお会いするとき、批判者である私に対して、速水総裁はいつもじつに丁重、誠意にあふれた態度をおとりくださったことです。元IMF専務理事・イスラエル中央銀行総裁のスタンレー・フィッシャーも、同じ理由から「議論内容が何であれ、折り目正しい速水総裁と話すのは楽しい」とうれしそうに話していました。
 研究所長の任期を終えて帰米に際して、日本銀行へ挨拶にうかがったときも、(貴兄は海外出張中でしたが)硬い表情に見えた役員もいたなかで、速水総裁だけは本当に親身になって話していただきました。決して、論敵がいなくなってうれしいという表情ではありませんでした。
 そのときに湧いた疑問は、「なぜ、このようなすばらしいお人柄と、『ゼロ金利解除』を強引に行うような円高志向の政策観が共存できるのか」ということでした。いま起こっている疑問は、「貴兄のように明晰きわまりない頭脳が、どうして『日銀流理論』と呼ばれる理論に帰依してしまったのだろう」ということです。

 私の意見は本書の各章で述べています。本書のように日本の金融政策の責任者の頂上にある貴兄の批判をするのは、普段なら恐れ多いことで慎むべきことかもしれません。尊敬する日米の経済学者のなかにも、それはまず、日本銀行総裁に直接意見を申し上げて、その上で公に批判しなさいと忠告してくださった方もいます。
 それに従わなかった理由は次のとおりです。いわゆる「日銀流理論」と、世界に通用する本書に書いたような一般的な金融論、マクロ経済政策の理論との間には、依然として大きな溝があります。講演等では、貴兄は前者を繰り返しておられ、議論の相互理解が得られる可能性は少ないと思ったからです。


※以下、書簡全文は、『伝説の教授に学べ! 本当の経済学がわかる本』に収録されています。


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